旧運上屋から山の上町を望む。山上の木が三本木。(明治5年頃)
旧運上屋から山の上町を望む。山上の木が三本木。(明治5年頃)

三本木

 

山の上坂からメルヘン交差点へむかう坂に三本木急坂の標識がある。小樽の坂の中ではあまり急ではない坂になぜ「急」とついているのか?

当時は雪が降ると坂を上れなかったほどの急坂で、2回にわたり切り下げ工事がおこなわれた。1回目は明治15年(1882年)2回目は明治18年、入船の大火の後となっている

左の写真からみると坂が短く急なのがわかる。

現、オルゴール堂より着手、7尺(約2m)掘り下げると文献に残されてあり、左右の民家が道路よりもはるかに高くなり各自負担し家屋の引下げをしなくてはならなかった。

写真の奥の木が「三本木」でアカダモ(ハルニレ)の大木だったようだ。

明治14年の大火の時には、焼け残り、、明治18年の2回目の坂の切り下げ工事の時に三本木も伐採されたそうで、もし現在このまま残っていたら坂の雰囲気もまったく違うものとなっていたであろう。坂の中腹あたりに、現在左手(メルヘン交差点に向かって)には海陽亭(旧魁陽亭)がある。海陽亭にあがる道の向かいに道路がありその付近に三本木が立っていたのかなと現在歩きながら想像できる。

1.魁陽亭の上り口1本 2.通りはさんで向かいに1本 3.住初町に曲がる角に1本 という記述が残っている。

の三本木は航海者の好目標となり近づく小樽の町の目印となり安心ができたことだろう。この当時は山の上町が全盛時代で問屋の多くは町に存在し和船の船夫は坂の上、下で休憩しそれぞれの里に帰った時は三本木が有名になっていた。

さて、古地図から推察しながら、明治2年頃の山の上町はというと、旅籠が3戸 商家5戸 地形が丘の上にあるためすでに山の上と呼ばれていた。その他ほとんど畑で住初町にはアイヌの居住区があり、アイヌ部落であった。


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1865年頃現存する古地図の写し(前ページでも使用)
1865年頃現存する古地図の写し(前ページでも使用)

 港町(現メルヘン交差点)から山の上2丁目へ(三本木急坂)途中右手に三本木がある。




明治12年頃 向かって右山ノ上町、有幌町、港町側(メルヘン交差点)より見る
明治12年頃 向かって右山ノ上町、有幌町、港町側(メルヘン交差点)より見る

 

三本木スィーツ(羽二重餅)

 

 

当時すでに、各地で有名になっていた三本木、もうひとつ有名だったのが、一杯茶屋がありそこで売られていた羽二重餅だ。前述した和船の船夫たちがこの茶屋で休憩し、餅までが名代の羽二重餅となったとのこと。

現在、2~3年ぐらい前までには、山の上坂界隈から現南小樽市場付近にも多くの餅屋(約10軒ぐらい)があった。「はち」を移転した時には随分と餅屋が多いなと思っていたけれど、その名残りか・・・?時のスィーツの原点がここにあり!