忍路・高島及びもないがせめて歌棄・磯谷まで

古地図メルヘン交差点~三本木急坂へ
古地図メルヘン交差点~三本木急坂へ

 

 

江差追分で謡われている鰊豊漁の時の、小樽の場所請負人・運上屋の繁栄を歌ったもの。

 

クッタルシ(入船川尻)の意味は、アイヌの言葉でイタドリの多い処という意味。

一面イタドリがおい茂っているとこからつけれらた川の名前です。

(現・堺町-臨港線への交差点)から(海)立岩に至る海岸一帯は奇岩・怪石が累積し

高島への歩行を阻んでいたという地形。立岩のある場所というのは、現在、かま栄の本

店がある臨港線の場所付近です。

 

場所と運上屋と岡田家

 

ここで少々説明を・・・。

 

当時、北海道は米の収穫がなかったため松前藩は蝦夷交易(アイヌの人々との取引

を幕府から認められていた)による収入を家臣への給料とする制度をとる。その家臣を

知行主(ちぎょうぬし)という。知行主はその取引を松前藩の商人にまかせその一部を

運上金としてもらうようになる。決められた区域を「場所」そこをまかされた商人を

「場所請負人」といい、取引の拠点を「運上屋」とした。アイヌの人々との交易拠点

となったばかりではなく役人や通行人の宿や公文書の取り扱いなど松前藩の出先機関

のような役割を果たす場所(役所)にもなっていった。

 

近江八幡出身の岡田家は、もともと呉服太物を販売していたが松前に渡り商売を始める

岡田家の松前店の屋号は恵比寿屋と号し商売が次第に繁盛し松前藩主・藩士に需要品を

供給・金銭を融通するようになり松前の商権を握っていった。

これぞ近江商人の典型。忍路・高島場所の場所請負人は、同じ近江商人の住吉屋西川孫

兵衛。江差追分の「忍路・高島およびもないが・・・」は、この西川家を謡ったものと

いわれている。

場所での交易品(海産物)→北陸・京都・大阪の市場で売りさばく→その利益で藩主

藩士に物資を仕送り。多くは、仕送り金がかさんでその債務を果たすために松前藩が場

所の経営を渡すようになったのが事実のようです。


今の小樽で運上屋のあった所は、高島とオタルナイ(入船川尻)・忍路の三ヶ所です。

資源豊富な漁場が近くにあること船付き場として有効な場所であった、また丘陵地の

多い小樽の土地で比較的この三ヶ所が平坦だったことが、運上屋を設けることのできた

条件だったようです。(オタルナイ場所は、川と海が交わっていた)交易品を商売とし

てその利益の一部を「運上金」として松前藩に収めていたが次第に力を増していくこと

になっていく。

現存して見学できる余市の旧下ヨイチ運上家・各地に残る番屋を見てもその当時の場所

請負人の富と力が想像できます。1850年 松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」によると、当

時の小樽内の運上金は三百七十両と記されている。現在のお金に換算するとだいたい三

千七百万円相当になる金額です。

 

1807年(文化7年)近藤重蔵の「西蝦夷地日記」に岡田家の場所の記述があるので一部抜粋

 

請負人   岡田源兵衛

支配人   左次兵衛

通記(アイヌとの通訳) 伝吉

番人  7人

番家   3ヵ所

場所  オコバチよりフンベまでの五里

夷惣人数(アイヌの人数)  180人余

惣乙名  タブフ・小使・イレバ・土産取

産物   鮭・鯡・鱈ほか

運上金  300両


この数字からも当時の場所のすごさが想像できます。


1864年(元治元年)小樽内の請負を廃止、産物を直接幕府に入るようにし場所制度も廃止にな

っていくのです。

運上屋の間取り

 

松浦武四郎「蝦夷日誌」より 安政元年(1854年)

 

「間口十三間奥行七間余、鰊土蔵物置十二ヶ所有。何れも間口八間奥行三間位。

此村人人家三百軒余有り。鰊取小屋斗也。蝦夷小屋十三軒あり。」

ここ堺町に、このような大きな運上屋がかつて存在していたのです。

一間は180cm。「運上屋、後ろの山に添て南向きに美々敷建てり。」

小樽場所には724艘の船を備えているという記述があり、まさに帆柱林のように

立てり。の様子が伺えます。


労働力としてのアイヌの人たち

 

一部の松前藩士と場所請負人達の不当な利益で、多くのアイヌの人々が荷重な労働

差別に苦しみぬいたことは、しっかり明記しなくてはなりません。

事実、小樽内の場所にも多くのアイヌ人々が住居などを強制的に移動させられ労働

させられたいた事実があります。古地図にも記されていますが、入船川すぐの原町に

は大きなアイヌ部落があります。住初町(原町)のアイヌ部落 マサラカマプ(オタルナ

イ源流)のアイヌの人達を入船寄りに移し運上屋が入船川尻クッタラシに開き労働力

としていたのです。内地からの出稼ぎの住人とともに、重要な労働力でありました。

 

アイヌの場所内の人数 1786年(天明6年)祝津場 131人 小樽内 160人

寛政 高島場所 200人 小樽内場所 180人


祝津は「しくつし」と呼ばれ多くのアイヌの人たちが生活していました。

寛永12年(1635年)松前藩士 村上掃部左衛門広儀が歩き地図を作成その写しが函館

図書館に現存。多くの蝦夷が居住した村として「祝津(しくつし)えそありえそ多くあり」

と記入されています。