ぶら・・・「はち」
ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする
明治4年頃(1871年)・・・。
臨港線がまだ海のままで、勝納川付近は今のように平らではなかった頃。
信香の崖の上に建てられた燈台は、小樽の文明開化の走りでありその当時の繁栄をあらわす象徴であったようです。櫓(やぐら)の上に行燈(あんどん)がのり、後の火のみ櫓をおもわせる形であり、ガラス張で当時の小樽の名物となっていたようです。光源は、燈油。ガス燈はまだ先です。
日本で初めてガス燈が灯ったのが、明治5年(1872年)。
明治7年5月に焼失。その後再建はされませんでした。
海を航行し、入船川(堺町から入船町への道は、当時川だった)
まで荷物を運搬する船には、安全に港へ入る唯一の灯り。
電気もガス燈もない時代の明るさ・・・今からは想像もできません。
当時を見た様子は・・・
「山下一時に衆星の如く輝きたるを見る・・・就中海関所燈台は太白の
蓬窓照らすかと疑われ」
北海紀行(林顕三)の記事より 明治6年(1873年)七月十一日
古地図。ここからすべて始まる。
現存する小樽市内最古の見取り図(市立小樽図書館蔵-郷土史家 越崎宗一氏模写)1865年頃(慶応元年頃)のものではないかといわれています。(一部抜粋)
あたりまえに車が行き交う交差点(現 メルヘン交差点)は、クッタルシといわれた川(入船川)だった・・・。当時かかっていた橋は、港橋といわれ今のメルヘン交差点付近は港町と町名がすでについていたようです。現 堺町郵便局のとなり小さく立っている碑。行き交う人は、ほとんど気づかない”オタルナイ運上屋跡”この運上屋が大きく小樽の街を開いていく拠点としての役割を果たしていた歴史があります。そして、この一帯をしきっていた人物名。しっかりとこの地図に半兵衛拝借漁場と書かれている。この半兵衛がここを取り仕切る場所請負人である恵比寿屋岡田半兵衛。”山の上坂”を切り開いた人物。歴史をさかのぼりながら、少しずつ坂を上ってみたいと思います。
このころの入船川の様子。
「春鰊出稼ぎ頃の小樽は諸国の廻船のクッタルシの運上屋前にかかって帆柱垣の如く林立した」
秋田藩士 秋本吉兵衛 「蝦夷地旅行日記」より
いまからは想像できない賑わいだったようです。
2010.5.17
地図を見やすくするため判明した箇所を一部加筆。